1988年1月髙橋社長はロシアのナホトカ港でロシア沿海州所属のスケトウダラ加工母船に乗船していました。 そのロシア漁船にはたった一人の日本人、髙橋社長の姿がありました。もちろん当時は某社に勤務する若くて腕の良いたら子職人でした。 当時スケトウダラ漁を行う多くのロシア漁船に、髙橋社長の他にも多くの日本人(たら子職人や漁業関係者)がそれぞれ一人ずつ乗り組んでいました。
スケトウダラ漁はカムチャッカ沖から東ベーリング海域またオホーツク海の漁場で繰り広げられ、 まさに波濤逆巻く荒れた極寒の海が漁師の仕事場でした。1月から4月までの漁期、一つの漁船でスケコ(スケトウダラの卵)の加工・処理の指導が終わると、 こちらの漁船からあちらの漁船へと転船を繰り返し、いつも多くのロシア人に囲まれてスケコの加工指導とスケトウダラ漁の旅を続けました。
それから毎年シベリア行きが続きました。当時のロシア特に極東は大変なところで、氷点下25℃の極寒の海はもちろん、 言葉の壁や日本人に対する警戒心が強くなかなか打ち解けることができませんでした。 食べるものと言えばボルシチと硬いパンだけ、おおぜいのロシア人に混じってたった1人だけの日本人にとって想像をはるかに超えたところでした。
片言のロシア語が通じるようになって初めて情も通い、次も必ず来いよと言われ肩を抱き合い別れるようになりました。 はじめてロシア漁船に乗ってから30船ぐらい転船しましたが、同じスケトウダラ加工母船に巡り合う事はありませんでした。 髙橋社長がロシア漁船に乗っている間じゅう夢に出てくるのは日本食、帰路新潟に上陸すると一目散に寿司屋をめがけて駆け込んだと言います。
髙橋社長がなぜロシア漁船でスケコの加工・処理指導をすることになったかと言いますと、その頃になると日本漁船は北洋海域から締め出され、 スケトウダラの漁獲が激減しスケコ(スケトウダラの卵)をロシアやアメリカから買い付けることが多くなっていました。
なかでもロシアから買い付けるスケコは、鮮度を含め品質が安定せず買い付けのリスクが高まっていました。 そのころ髙橋社長もたら子職人の一人としてナホトカの冷凍倉庫まで出張し、スケコの検品・買い付けを行うほどの目利きになっていて、買い付けの度にロシア産のスケコは鮮度を含め品質が安定しないことを肌身で感じとっていました。
品質を安定させ付加価値を上げたいロシアのソブリブフロート(国営の輸出公団)やダリモレプロダクツ(公開水産会社)と、品質の良いものをできるだけ安く買い付けたい日本の商社との間で、 国家規格を作り日本から技術者や職人を派遣し加工や処理の仕方を指導することで、良質のスケコを生産する事に合意しました。
日本が派遣する指導員にナホトカの冷凍倉庫でスケコ検品・買い付けの実績があり、腕利きのたら子職人である髙橋社長が選ばれたのは当然の成り行きでした。